ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

自分独自の座標軸を持っていますか?

2017-01-06 08:19:20 | 病状
 回復とは常に平常心を保つこと、と今まで何回か述べてきました。年の初めに当たり、再び平常心について考えてみます。

 平常心獲得というと、普通は荒行・苦行などの精神修業を思い浮かべると思います。今回は、平常心獲得のイメージを精神的な根性論ではなく、合理的(?)なイメージとして描いてみたいと思います。結論を先に言えば、自分独自の座標軸を持って、常に自分の立ち位置を確認できるイメージのことです。

 ここに至ったきっかけは三つあります。
一つ目は、怒りの兆しをリアルタイムで察知できると、それを超えて感情が暴走しないという体験です。
二つ目は、自助会AAの『アルコホーリクス・アノニマス』第6章にある記述です。
三つ目は、ゴミ拾いの奉仕を継続してきた経験からです。

 ひとつ目の感情の察知については、文字通りの意味でしかありません。怒りを一方に、その対極に喜びを置いた一本の座標軸をイメージすると、原点に当たる両者の中間点が心の落ち着きになると思います。僅かでも原点からどちらかに動けば、その動きが微妙な体感の変化(兆し)として瞬時に察知できるようです。このことで、 [怒り] ― [喜び] という感情の座標軸を持つことができました。

 座標軸のイメージをはっきり気づかせてくれたのは二つ目の『アルコホーリクス・アノニマス』第6章の次の記述です。
「新しい自由、新しい幸福を知るようになって・・・(中略)・・・
 心の落ち着きという言葉がわかるようになり、・・・(中略)・・・
 自分の経験がどれほどひとの役に立つかがわかるようになる。」
いずれも「・・・わかる(知る)ようになる」という文脈になっていて、それぞれの状態になれるのではなく、どんな位置にいるのか認識できるようになるという意味に取れます。

 この文脈の意味するところをAAのミーティングに当てはめてみると、次のことにも気づかされました。ミーティングで各メンバー(仲間)の語る体験は、海図上で目印とすべき灯台のようなものということ、つまり、私独自で設定した対人関係座標軸上の貴重な位置情報でもあり、同時に私自身の立ち位置をも教えてくれるものということです。それからというもの、作為のない事実を正直に語ってくれる仲間が貴重な道標と思えて来ました。これが二つ目のきっかけでした。

 三つ目のゴミ拾い経験ですが、始めた頃はポイ捨てした人物像の方にばかり意識が向かい、イライラ・カリカリの連続でした。こんな不快だらけの状態ではとても長続きなどしません。そのうちポイ捨てした人物への怒りが薄れ、ゴミが単なる不用品という見方ができるようになりました。慣れというよりも、先入観を排したモノの見方・考え方に変わったのだと思います。

 ゴミが汚物の場合もあります。他人の汚物に接し続けたことがモノの見方・考え方を鍛えてくれたのだと思います。 [用] ― [不用] という座標軸上で、ゴミがどの位置にある物質か合理的に見れるようになったという意味です。ゴミ拾いを継続したお陰で、私流の [快] ― [不快] という感情的な座標軸にもう1本 [用] ― [不用] という理性的な座標軸が追加されました。

 世間の常識や、様々な情報、特にTV CMによって形作られた、いわば他人任せで御仕着せの座標軸は五万とあります。あたかもカー・ナビに従うように、物事に出会う度に自分を右だ左だとそれぞれの指示に合わせようとしたら、堪ったものではありません。たとえ自分を見失ったとしても、これなら当たり前のことです。

 自分独自の座標軸を持ってさえいれば、その時々の物事との距離が合理的に測れます。逆に言えば、物事を介して常に自分の立ち位置が確認できることになり、自分を見失うことはあり得ません。

 以上が、いつも平常心でいられることとは、自分独自の座標軸を多様に備えていることと考えるに至った経緯です。平常心を保つということと、己を知るということとは同義と考えています。自分の半生で体験してきたことを座標軸上にきちんと位置付け、他人の体験も貴重な目印として座標軸上に位置付けていけば、自分の立ち位置がはっきりわかるようになれます。もし座標軸が足りなければ、追加すればいいだけのことです。

 こんなふうに座標軸作りを続けていたら、メディアから流れる報道にもCMの宣伝コピーと同様の作為が自然に透けて見えるようになりました。人の作る物ですから、それなりの思惑が裏に込められていてもやむを得ないことです。自分独自の座標軸を持ったら、こんなふうに見えて来るのも自然なことと思います。 

 他人に左右されない生き方を目指すと少し変人扱いされるようです。それも慣れてくると大きな問題ではなくなります。独自の座標軸を持った自律した人生。どうです、かっこいいと思いませんか?

 肝腎なことを言い忘れていました。どうやったら独自の座標軸を持てるかですが、感情に走る自分を離れ、自分自身をも客体化して眺められるようになることです。

 その参考にと性懲りもなくここで余計なお節介を一つ。
事実をありのままに見る鍛錬には、他人の残した汚物を始末してやるのが一番です。他人の汚物は、不潔とか、だらしないとかいった先入観の塊です。そんな汚物に直に接して慣れてくると、先入観で一杯となったモノの見方までも同時にキレイさっぱり始末してくれるようです。どうぞ皆さんも思い切ってお試しください。



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